3巻1号

巻 頭 言

 いわゆる数学科で卒論を課しているところは,教員養成系などを除いてあまり聞かない.昨今の大学の組織改組に伴って, 今までの数学科が数理学科などの名称に変わったケースもあるが,学部卒業の要件に卒論が加わったところはあるのだろうか.
 今は多くの数学科卒業生が大学院に進学し,たとえそれが数学専攻でなくても修論を書かねばならない.だが,卒業後すぐに就職する学生には,ぼんやりしていると自分で何かを調べて考えをまとめていくという作業の機会がほとんどない.個人レベルの,さまざまな発見の機会が失われているように感じられる.そんなわけからだろうが,図書館や書店の書架にある書物の背表紙をみて,中身を覗き込みたくなる衝動に駆られる学生は少ないという.私は,卒論作成をとおして,学生のかなりの成長が期待できると思う.それに自信もつく.じじつ実験系の学科や文系では,その意義は大きいようである.

 どうして数学科には卒業論文がないのだろうか?

理由は,少しでもオリジナリティを求めれば結局それは難しく,かといって実験結果を分析し報告するレポートの代替物は見い出しにくいからだろう.また往時は, 学生の勉学態度や心構えも違っていただろうから,まとめるだけの卒論なんて書かせるだけ時間の無駄,と考えられていたに違いない.しかしじつのところは,教員の側に研究上のメリットがまるでなく,それどころか手間がかかるだけ---実験系なら,右の実験機具を左にするとか定時観測とか,また調査や資料の整理といったところで役立つのに,である.一般的に数学者は,研究をやっている限り,大抵は年令に関しては良くも悪くも鈍感である.だから学生に対しても尊大な態度をとることは少ない.ときにはセミナーで,学生に本を読ませて自分も“得しちゃおう”と思うくらい彼等を尊重している.
 だが,時代は変化した.残念ながら,よい方策は見つからないが,一度“卒論”の可能性を吟味してはどうだろうか.それは, 学生が何かに積極的に取り組む機会を設けることであり,彼等の大学生活をもう少し充実したものにさせるきっかけになるかもしれない.そればかりか,実社会で必ず役に立つ,いくつかの“わざ”のイロハを身につけ恰好のチャンスになるかもしれない.
 卒業後,会社や学校などの仕事の場において,そしてまた,将来には,子供たちに胸を張って自分の卒論テーマを言えるようにしてやりたい,とは思いませんか.

(九州支部責任評議員 若山 正人)


3巻2号

巻 頭 言

 数学は進歩する.しかも,かなりのスピードで.これは我々にとってはあたりまえのことであるが,進歩の陰には多くの数学者のたゆまぬ努力があり,これを振り返ってみるのも感慨深いものである.
 私が学部の学生だった1970年頃は,フランスを中心とする代数幾何学の一般論の大発展が一段落した頃だった. 実際,1960年代には,代数幾何学の再構成を掲げてGrothendieckがスキーム理論を展開し,EGA, SGAなどが次々に世に送り出され,ブルバキセミナーの記録をみても,この方面の講演であふれていた.結局,EGAは完結しなかったが,その壮大な理論展開にわくわくする気分だった.ちょうどその頃, Mumford の Abelian Varietiesが出版され,Grothendieck のスキーム理論が味わいを出し始めたのを感じていた.一方で,エタールコホモロジーの理論が作られ,Weil予想の解決に向けた動きが加速していた.
 それに続く1970年代は,代数幾何にとってまさに収穫のときだった.合同ゼータ関数に関するWeil予想,K3曲面に関する Torelliの問題,アフィン空間上のベクトル束に関するSerre予想, 有理数体上の楕円曲線のねじれ部分に関するSerre予想,有限体の有限生成体上定義されたアーベル多様体に関するTate予想,代数曲面のChern数に関するvan de Ven予想,射影空間の特徴付けに関するHartshorne予想,アフィン曲線のキャンセリングに関するZariski予想,射影平面の中の代数曲線の補集合のホモトピー群に関するZariski 予想,1980年になってまもなく,ケーラー曲面の特徴付けに関する小平予想,Mordell 予想などがつぎつぎに解決された.また,正標数の代数的閉体上の代数曲面の分類理論,クリスタリンヌコホモロジーの理論,Hodge 理論,トーリック多様体の理論が構築され整備されたのも 1970年代であった.そして,複素数体上の代数曲線のモジュライ空間は種数が大きいときには一般型の代数多様体になるという,当時の感覚では意外な結果が示されたのは 1980年代初めである.
 高次元の代数多様体の研究となると,私の学生の頃にはまだほとんど手付かずの状態だった.どのように扱うべきかわからないというのが当時の状況であったと思う.飯高予想がようやく動きはじめたのは1970年代半ば過ぎであった.その後小平次元の理論が整備され,1980年頃には森理論が発表され大発展が始まることになる.1980年代後半には,3次元代数多様体に対する極小モデルの理論,それに引き続いて3次元代数多様体の分類理論が完成する.また,1980年代半ばには,代数幾何の素粒子論への応用が見い出され超弦理論が提唱された.それによれば,Calabi-Yau3様体という数学的にも面白い多様体が素粒子の振る舞いと関係するという.つい最近には,数論の方にむしろ近いが,代数曲線の代数的基本群に関する Grothendieck予想,有名な Fermat 予想が解決されるに至った.
 私が数学的に物心がついてから約30年.この間,代数幾何学が進展するさまはほんとうに楽しいものであった.最近,正標数の代数幾何学の符号や暗号といった情報通信と関係する分野への応用が見い出され,これからの進展がまた楽しみである.

(理事 桂 利行)


3巻3号

巻 頭 言

ニュートン以後,18世紀から19世紀にかけて,イギリスの数学は沈滞していた.ヨーロッパ大陸でオイラー,ルジャンドル,ガウス,ヤコービ,ディリクレー,リーマン,ワイエルシュトラス,コーシーと巨匠が輩出したのに比べて,イギリスのケーリー,シルベスター,ド・モルガンなどが軽量級であることは否めない.
ニュートンを崇めるあまり,純粋数学より自然科学への応用ばかりに力を注いでいたからと言われる.大陸の数学者が,無限とか極限,連続などの定義にこだわり,厳密な推論を金科玉条とし,役立たずの数論などにうつつを抜かしているのを,物好きのすることくらいに眺めていた.この状況を初めて深刻にとらえ,イギリス数学再建に立ち上がったのがハーディーである.カミュ・ジョルダンの「解析学教程」で勉強した彼は,数学的に大陸の人だった.彼はまず,イギリスで初めての厳密な解析学の教科書を著す.ついで,ケンブリッジ大学の卒業試験トライポスの改革にとりかかったのである.
17世紀のころから,トライポスでは,あらゆる思考の基盤ということで,試験科目として数学のみが用いられていた.政治や宗教と無縁という利点もあった.19世紀になってやっと古典や自然科学も加えられたが,何といっても数学が主だった.当時の数学トライポスは,四日続けて問題を解かされ,一週間おいてからまた四日間難問を解かされる,という学生にとっては精根つき果てるものだった.席次は公表され,成績優秀者や次席者の名は新聞にのるばかりか,学界や官界における将来までが保証されていた.ケンブリッジの数学偏重については,詩人のバイロン,歴史家のマコーレー,生物学のダーウィンなどが日記や手紙の中で悲憤慷慨している.
問題は難しく,好成績を残すためには,トライポス専門の家庭教師まで雇わねばならぬほどだった.最優秀賞をとったハーディーやリトルウッドでさえそうだった.数学の本質からかけ離れた技巧ばかりを要求するトライポスのため,多大の時間をさいて準備したハーディーは,後年これを強く悔いることとなる.そしてこれこそがイギリス数学低迷の元凶とみなし,この改革に全力を尽くしたのである.
ハーディーの不退転の決意と努力のおかげで,1910年に,問題の適正化や席次発表の中止など大きな改革がなされた.イギリス数学者の大半がケンブリッジ出身であることを考えると,今世紀中葉からフェルマー予想解決のワイルスに至るイギリス数学の隆盛は,このトライポス改革と無関係ではあるまい.根本的な試験改革とはそういうものなのだろう.
ひるがえって我が国の受験数学を考える時,当時のトライポスを連想させるものがないだろうか.技巧に走り難解に走る問題がないだろうか.中学,高校,大学の受験を志す生徒達の多くは,学習時間の恐らく三分の一以上を算数や数学に費やしている.塾や,予備校では難問に素早く対処すべく反射神経を磨いている.すでに数学は暗記科目とみなされている.この時間を少しでも読書や課外活動に向けることは,一般生徒はもちろん数学を志す生徒にとっても,有益ではないだろうか.我々数学関係者は,低下する一方の大学生の学力を目の当たりにして,とかく被害者意識にとらわれやすいが,加害者となっている可能性のあることも,忘れてはならないだろう.

藤原正彦(お茶の水女子大学)


3巻4号

巻 頭 言

 近くの本屋で,ドナルド・キーンの日本文学史を日本語に訳した本を見つけたので,買 って来て読んでいたら,いつのまにか全18巻の内,ちょうど半分の第9巻まで読んでし まった.次の第10巻からは明治時代に入る.とくに日本文学史を勉強しようというわけ ではないので,それほど集中して読んだわけではなく,寝酒がわりといったほうが近い. 話題は和歌や物語,連歌や随筆,能とか歌舞伎とか浄瑠璃,俳句やら国学やら戯作やら, ありとあらゆるジャンルに亙っていて,著者の博識にはただただ圧倒される.
 ところどころに,われわれ日本人とは視点の異なる(と思われる)指摘もあって,なか なか面白い.例えば,第1巻のはじめのほうで,日本語が昔から基本的に変化していない のは驚く程だと述べている.キーン氏によると,近年,外来語が多いと指摘されるが,そ れは新聞などでは語彙の3パーセントほどに過ぎず,また,外来語はたいていカタカナで 書かれるので,なかなか本来の日本語に同化しにくい.英語などのように,アルファベッ トしか文字をもたず,外来語と本来の言葉の区別がつきにくくなる言語に較べると事情が 異なるという.また,16世紀の開放的だった環境から鎖国へと向かい,外国からの影響 という肥やしを奪われたとき,日本にとって救いだったのは,振り返るべき過去がきわめ て豊かだったことだという指摘(第6巻の終り)もある.これは,「日本人は外国の真似 は得意だが,独創性に欠ける」という近年ありがちの論調への,文学史の方面からの強い 反論のように思われた.
 さらに面白いのは,とりあげられている全ての和歌と俳句に,それらの英訳が原書のま ま添えられていることである.例えば,芭蕉の辞世

       旅に病で夢は枯野をかけめぐる

       Stricken on a journey,
       My dreams go wandering round
       Withered fields

と訳されている.英訳した人の名は必要ならば明記されているようなので,この場合のよ うに訳者の名がないものは,キーン氏自身の訳と思われる.
 数学の論文のような論理的な文章であれば,著者の言いたいことがほぼ正確に翻訳され るだろうが,文学作品等の場合にはかなり無理なのではないだろうか,と漠然と考えてい た.しかし,ドナルド・キーン氏のように英語と日本語の双方に精通したひとが,たとえ ば芭蕉の句を英訳して提示してくれているとき,なるほど,「英語人」はこのような英文 によって,芭蕉の句でわれわれが感じる気分を味わうのか,と考えたほうが正しいのでは ないだろうか,と思い始めた.論理だけでなく,気分というもののかなり正確な翻訳可能 性を信じることにすると,上のような英訳から,英語のニュアンスも学べるわけである.
(ドナルド・キーン「日本文学の歴史」全18巻,中央公論社.1994)

(理事 松本幸夫)