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日本数学会

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「デジタル教科書」推進に関する数学会の検討状況について

2010年11月2日

理事長 坪井 俊

日本数学会も加盟する理数系学会教育問題連絡会では、教育情報化が推進されようとしている現状に対して、その際に是非とも検討すべき項目をあげチェックリストとして広く社会に提案し慎重を期していただくことを要望しようと、議論を重ね、成案を得ました。日本数学会においては、その案を教育委員会、理事会において慎重に審議した結果、下記の声明に加わることといたしました。

(追記)2010年12月7日に下記の「提案と要望」を文部科学省に提出しました

2010年12月8日

先に公表されております『「デジタル教科書」推進に際してのチェックリストの提案と要望』は2010年12月7日 に文部科学省生涯学習政策局長に手渡され、その趣旨が説明されました。

「デジタル教科書」推進に際してのチェックリストの提案と要望

2010年11月1日

一般社団法人 情報処理学会
(社) 日本数学会
(社) 日本化学会
日本化学会化学教育協議会
日本統計学会
(社) 日本動物学会
日本物理教育学会
一般社団法人 日本地球惑星科学連合
(五十音順)

理数系学会教育問題連絡会に加盟する上記諸学会は、「デジタル教科書」「デジタル教材」推進に際して、世界的に見て低くない我が国の教育水準を維持し、さらに向上させるために、必要と思われる事項のチェックリストを作成致しました。

現在、関係各位において「デジタル教科書」「デジタル教材」(以下、単に「デジタル教科書」と記します)推進に向けての議論が進められていることと理解しております。理数系諸学会においても、今日の情報・通信技術により実現可能となった「デジタル教科書」の活用は、教育における重要な課題でありかつ、将来にわたってわが国の教育を高めていく上で必須のものであると理解しており、それぞれ、その教育における活用に取り組んで行きたいと考えています。

しかしながら、「デジタル教科書」は、あくまでも教育の手段であり、目的とするのは教育を高めていくことであるのを忘れてはなりません。特に初等中等教育における「デジタル教科書」の活用に関しては、生徒・児童の発達過程およびその教育内容との関連についてこれまでに行われてきた検討・試行・研究を、技術の進化を踏まえて、さらに深めていく必要があります。

このような考えから私たちは、「デジタル教科書」活用に向けての具対策が、教育そのものを高めていくという目的に適ったものになっていることを確認するため、下に示すとおりの9項目のチェックリストを作成致しました。このチェックリストは、理数系諸学会が「デジタル教科書」の活用に向けて活動する際に配慮すべき事項をまとめるという趣旨で作成したものですが、関係各位におかれましても、「デジタル教科書」の推進にあたっては、常にその施策が、本チェックリストの全項目を満たしていることを確認されますように、強く要望いたします。

事項1: 「デジタル教科書」の導入が、手を動かして実験や観察を行う時間の縮減につながらないこと。

事項2: 「デジタル教科書」において、虚構の映像を視聴させることのみで科学的事項の学習とすることが無いこと。

事項3: 「デジタル教科書」の使用が、児童・生徒が紙と筆記用具を使って考えながら作図や計算を進める活動の縮減につながらないこと。

事項4: 「デジタル教科書」の使用が、児童・生徒が自らの手と頭を働かせて授業内容を記録し整理する活動の縮減につながらないこと。

事項5: 「デジタル教科書」の使用が、穴埋め形式や選択肢形式の問題による演習の比率増大につながらないこと。

事項6: 「デジタル教科書」の使用が、児童・生徒どうしが直接的に考えや意見を交換しながら進める学習活動の縮減につながらないこと。

事項7: 「デジタル教科書」の使用により、授業の「プレゼンテーション化」や、児童・生徒に対するプレゼンテーション偏重・文章力軽視意識の植え付けが起きないようにすること。

事項8: 「デジタル教科書」の導入に際して、教員の教科指導能力が軽視されることがないように、また教員の教材研究がより充実するように配慮すること。

事項9: 「デジタル教科書」の導入に際しては、少なくとも当面の間は、現行の紙の教科書を併用し、評価や採択においては紙の教科書を基準とすること。

付記1 健康上の問題点に関する検討

上に記した以外の点として、情報機器の長時間にわたる使用が、児童生徒の視力をはじめとする身体能力やその発達に悪影響を与える可能性についての懸念について指摘しておきます。私供はこの分野の専門家ではないため、この件については事項として挙げませんでしたが、研究開発校など限定的な範囲において、十分に時間をかけた調査を実施することにより、デジタル教科書が子供たちの健康に悪影響をもたらさないかどうかについて、まずは検証することが、デジタル教科書導入の教育効果について考える前段階として必要だと考えます。

付記2 児童・生徒のプライバシーに関する検討

「デジタル教科書」に関連して、すべての児童・生徒の学習行動を電子的に記録・集約・保管して学習指導に役立てるという考えがあります。これが教育上有益であり得ることには異論ありませんが、当然ながらこのようなデータは高度なプライバシー情報です。児童・生徒ならびに保護者が認める者だけがこれらのデータにアクセスでき、また児童・生徒ならびに保護者がデータに対する制御を持つこと(必要な時に自分のデータを利用できるようにすること、またその意思に基づいてデータが確実に破棄可能なこと)を確実に保証すべきであり、その保証が行えるまでは記録・集約・保管を見合わせるべきだと考えます。

付記3 チェックリスト各事項の解説

事項1: 「デジタル教科書」の導入が、手を動かして実験や観察を行う時 間の縮減につながらないこと。

解説: 理科においては、実際に実験などを行い、自然現象を観察することが、本質的に重要です。実験なしで教材のみで学習を済ませた場合、試験の点数は取れても、現実に理科的思考が必要な場面で対応できないおそれが大きいと考えます。したがって、デジタル教科書の教材を視聴・操作することで実験を代替し、実験の時間を「節約」するようなことが起きないような配慮が必要です。なお、現状で既に、理科を十分学習せず、理科の実験が行えない教員の増加が問題になっていることから、そのような現状を改善し、理科の実験実施への敷居を低くするようなデジタル教材の導入は、大いに望まれることを付記します。

事項2: 「デジタル教科書」において、虚構の映像を視聴させることのみで、科学的事項の学習とすることが無いこと。

解説: 今日のデジタル映像技術の進歩はめざましく、「わかりやすい」映像を生成することが容易におこなえます。従来の授業形態では難しかった、自然の記録映像等の視聴を行えるようにしたり、見ることができない空間や電磁場などの概念を視覚化することで把握を助ける、という形でのデジタル教材の導入は、大いに望まれることです。一方で、どんな現象でも自由にしかも直接に観測や実験可能だという誤った直観を醸成する危険性もあります。科学による自然の解明は、観測・計測困難なものを観測・計測できるようにするための技術や、観測・計測できたごく限られたデータを元に、モデルを構築して理解する活動によって支えられています。そのような困難や達成感を生徒が身を持って体験できるよう、デジタル映像の視聴は、教育上必要な範囲に留めるべきだと考えます。

事項3: 「デジタル教科書」の使用が、児童・生徒が紙と筆記用具を使って考えながら作図や計算を進める活動の縮減につながらないこと。

解説:紙と筆記用具を用いて事項を整理したり、計算や証明の過程を適切に配置する訓練を積むことは、理数系の各科目において非常に重要な位置づけを占めます。これらのことがらをソフトウェア上で行うことも不可能ではありませんが、初等中等教育段階では、紙と筆記用具のような柔軟性や操作性に優るものはないと考えます。特に、学びの基本的な技法である、ノートの取り方、直接動かすことができる教具や図を用いて考える方法、観察や実験の結果を写真ではなく図や言葉で記録する方法、表やグラフにまとめる方法、筆算等の計算の書き方、証明の書き方等が十分に身についていない学齢において、紙と筆記用具をソフトウェアで代替することは適切でないと考えます。

事項4: 「デジタル教科書」の使用が、児童・生徒が自らの手と頭を働かせて授業内容を記録し整理する活動の縮減につながらないこと。

解説: 生徒が学習した内容を自分のものとして定着させるためには、自発的に学習内容を記録・整理する時間を十分取ることが不可欠です。デジタル教科書の使用によって、学習内容が短時間に効果的に提示され、また教師の提示内容と同じものが即時的に手元に残せたとしても、それだけでは学習したことにならないのは当然です。デジタル教科書による学習の「効率化」が、生徒が手と頭を働かせて学習内容の記録・整理をおこなう時間の縮減につながらないように、十分な配慮が必要です。なお、「効率化」によって生み出される時間の余裕を、生徒による自発的な記録・整理のための時間増に充てられるなら、それは大変望ましいことだと考えます。

事項5: 「デジタル教科書」の使用が、穴埋め形式や選択肢形式の問題による演習の比率増大につながらないこと。

解説: 穴埋め形式や選択肢形式の問題は、生徒が問題全体を書き写すことなく、解答欄だけに記入すれば済むことから、一見効率が良いように思えます。しかし、児童・生徒が問題に関わる概念を十分に定着させるためには、問題全体を書き写すなど、作業に一定の手間と時間を掛けることが重要です。したがって、デジタル教科書により、この時間を縮減するような穴埋め形式や選択肢形式の問題の比率増大が起きないための配慮が必要です。

事項6: 「デジタル教科書」の使用が、児童・生徒どうしが直接的に考えや意見を交換しながら進める学習活動の縮減につながらないこと。

解説: 児童・生徒に科学的な考え方を身につけさせる上で、対象とする事項について話し合う学習活動は、さまざまな捉え方があることを身近に実感させ、それらを統合して真実を探究していく体験を持たせられるため、非常に重要です。デジタル機器を通した意見交換も可能ではありますが、やりとりされる情報の密度や即時性の点では、対面での直接的な意見交換のほうが優っているのが現状です。したがって、デジタル教科書の使用により、児童・生徒どうしの直接的な意見交換を行う学習活動が削減されることが無いような配慮が必要です。

事項7: 「デジタル教科書」の使用により、授業の「プレゼンテーション化」や、児童・生徒に対するプレゼンテーション偏重・文章力軽視意識の植え付けが起きないようにすること。

解説: プレゼンテーションソフトウェアは今日、世の中で広く使用されていますが、その使い方の多くはカラフルな図や写真などで目を引き、聞き手に「わかった気にさせ」「話者の主張を売り込む」ことを目的としたものです。しかし、スライドは筋道立てた文章を盛り込むものではないので、後からスライドを見ても正確な理由づけや論拠を読み取ることはできず、正確な情報伝達の文書として機能させることは難しいのが実情です。このようなプレゼンテーションソフトウェアに対する批判や警告、使用とりやめの提案は、情報技術の分野では1990年代から存在しています。学校教育の目的は児童・生徒に「わかった気にさせる」ことではなく「本当に理解させる」ことであり、また「自分の考えを筋道立てた文章により説明する」能力を養うことでもあります。デジタル教科書の使用によって、教員が「プレゼンテーションによって理解させた気に」なったり、児童・生徒に「魅力的なスライドを作ることが大切」だと誤解させるような事態が発生しないための配慮が必要です。

事項8: 「デジタル教科書」の導入に際して、教員の教科指導能力が軽視されることがないように、また教員の教材研究がより充実するように配慮すること。

解説: 動画をはじめとする一部のデジタル教材は、それを生徒に使用させておくだけで一定の時間が消費されるという特性を持ちます。このことは、当該教科に対する十分な指導能力を持たない教員でも、形の上では授業をこなせているように見せかけられることにつながります。しかし、生徒の本質的な学習や理解のためには、教員の指導能力が本質的に必要であり、なおかつ最重要の要因であることは言うまでもありません。そして、新しい教材を導入するということは、その教室での使用に先だって、十分な教材研究が必要となることも明らかです。従って、デジタル教科書の導入に当たっては、教員の教育能力を重視するという姿勢を明確に打ち出すとともに、各教員が新たな教材や教育内容の変化に対応できるだけの教材研究の時間を継続的に確保できるような配慮を強く求めます。

事項9: 「デジタル教科書」の導入に際しては、少なくとも当面の間は、現行の紙の教科書を併用し、評価や採択においては紙の教科書を基準とすること。

解説: 「デジタル教科書」の導入に際して、紙媒体の検定教科書を全面的に廃止して電子機器に移行するという考えがありますが、これは極めて大きな変化であり、十分な時間を掛けて得失を見極める必要があります。たとえば、これまでのe-learningなどにおける知見として、児童・生徒の中には一定時間(たとえば30分)以上、コンピュータ画面を見つづけることが困難な者が含まれるとの報告がありますが、紙媒体の廃止はそのような者にとっては「教科書で学習できなくなる」という重大な問題を招くことにつながります。このことを踏まえ、検定教科書については、少なくとも見極めが済むまでは、紙媒体の使用を継続(ないし併用)すべきと考えます。また、教科書採択において、デジタル教科書のみを対象とすることは、視覚効果や高価なアニメーションキャラクタの使用などが結果的に大きく影響してしまい、肝心な記述内容の適切さ、学習の進めやすさの評価がおろそかになる危険が大きいと考えます。このため、少なくとも紙媒体が併用される当面の期間においては、あくまでも紙の教科書を基準とし、そのデジタル版が併用される、という形を取ることを要望します。

付記4 参考資料

本文の検討に当たっては、さまざまな資料に基づく検討を行いました。そのなかで本文の各事項に関係が深いと思われるものを、以下に挙げておきます。

[1]
大学生にパソコン禁止令(Newsweekの記事の紹介)
http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2010/07/post-1436.php
米国の複数の大学において、学習に対する負の影響が明らかであるという理由で、授業時のノートPC使用を禁止したという報告。
[2]
The Blackboard Versus the Keyboard --- Why more colleges arebanning laptops in the classroom.
http://www.thebigmoney.com/articles/diploma-mill/2010/04/20/blackboard-versus-keyboard
なぜ大学では教室におけるノートPC使用を禁止しようとしているのかについての論説。ノートPCは学習に対して強い負の効果をもたらしているという研究が紹介されている。
[3]
Scaling the digital divide: home computer technology andstudent achievement (米国の研究者による論文)
http://www.hks.harvard.edu/pepg/PDF/events/colloquia/Vigdor_ScalingtheDigitalDivide.pdf
インターネットやコンピュータの導入は生徒の数学や読解の点数に負の統計的有意な影響をもたらしていることが分かったという報告。
[4]
Computers at Home: Educational Hope vs. Teenage Reality (NYTimesのサイト)
http://www.nytimes.com/2010/07/11/business/11digi.html
低所得層の学童において、家庭にコンピュータが入ることの教育上の利得はほとんど無く、逆にコンピュータが入るとテストの成績が低下し、上位層とのギャップが広がるという報告。
[5]
パワーポイント絶対主義(New Yorkerの記事の翻訳)
http://www.blog.net/powerpt-j.htm
パワーポイントによるプレゼンテーションの増加が、人々の議論する習慣やきちんと書ききちんと考えるという姿勢を奪い、思考力の減衰につながってるという論説。
[6]
新・VDT作業ガイドラインのポイント(厚生労働省によるまとめ)
http://www.roudoukyoku.go.jp/roudou/eisei/anzen-vdt.htm
VDTを用いる作業において、一定時間以上の連続作業を避け、休止時間を設けることの指針。ただし成人対象。
[7]
教育情報化推進協議会, 鈴木寛文部科学副大臣記者会見録(抜粋),
http://www.eeaj.jp/public/doc/main_02_budget_ict_ishin.html
鈴木副大臣の会見記録中で、学習履歴や学んだことの内容をシェアする ことの利点について言及している。

以上