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日本数学会

高木貞治50年祭記念事業

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「高木先生の思い出」(菅原 正夫)--「数学」12巻3号より

高木先生の思い出

菅原 正夫

2月28日に高木先生は脳軟化症のために東大沖中内科でなくなられました. 享年84であります.

水清い長良川のほとりにおい立たれた先生が京都の三高を経て東大数学科に入学されたのは明治 27 年でありました. 先生は藤沢教授のセミナリーで Abel 方程式をやらされて代数学の洗礼を受けられました. 当時日本は数学の草創期でしたが教室には既に Dirichlet の整数論講義や H. Weberの代数学の第1巻, 第2巻も来ておりこれらの著書から大きな影響を受けられました. ことに H. Weber の'楕円函数と代数的数' には全巻に渡って書き込みが残っています. 当時先生の外にこの本を読める人は見当たりませんので, 先生の勉強の跡ではないかと考えられます. Hilbert の Zahlbericht が来たのは卒業された年の11月で翌年先生はドイツに向かって旅立たれました. 先生の初めての著書新撰算術の序文はこの船中で書かれています. 先生がなぜベルリンを選ばれたかはわかりませんが, 先に留学された藤沢教授などにょって Weierstrass, Kronecker 時代の話が伝わってさては都上りとなったのでしょう. 先生の行かれたときにはこれらの英雄も既になくなられいささか期待がはずれたようです. 1年半の滞在の後 Göttingen に移られました. このころの Göttingen は Klein, Hilbert の二講座があり世界の俊鋭がその門にいしゅう (蛸集) していました. 先生はこの偉観に接し " 齢25にして数学の現状に後るること正に50年" と嘆じられています. 当時の模様は '回顧と展望 'の中にありありと描かれてお ります. 先生は Hilbert の下で 'Kronecker の青春の夢' を研究されたのですが, Hilbert は既に代数整数論を離れて変分法や物理学の偏微分方程式の研究に没頭していた時代であったので, 直接指導は何も受けなかったと言われています. しかし Klein や Hilbert は後来先生を通じて日本の数学の性格に大きな影響を及ぼしました. このときの先生の研究は東大紀要に掲戴されて学位論文となりました.

"Kronecker は自然有理域における Abel 数体がすべて円体すなわち円の等分方程式から生ずる数体によって尽くされるという定理を初めて述べた. この美しい定理の最初の完全な証明は H. Weber に発するが, 最近 Hilbert によって一層簡単な直接的な証明が付け加えられた. 2次虚数体に対する相対 Abel 体が特殊モズルをもった楕円函数の変換方程式から生ずる体で尽くされるであろうという憶測を言表したのも Kronecker であった. この憶測はまた H. Weber や Hilbertらの研究によって大変確からしくなったとはいえ,しかもなお決定的な解決を待っている. しかしこの大問題には元来好運な決定が確実でありうる特別な場合がある, すなわち基礎に置かれた2次体が類数1をもつ, 従ってたとえば, 1の3乗根や 4乗根によって生成される場合である, それらの場合は実際円体に対する定理の直接の拡張になっている. さて以下に取り扱われるのは最後に挙げた特別な場合で, それはレムニスケートの周の等分に関係し, 昔から特に高度の関心を要求している, そしてこの特別な場合における Kroneckerの憶測の確証は Hilbert の方法を用いて詳細に遂行される.

このほとんど余計な序言を私は Göttingen の Hilbert 教授への心からなる感謝の言葉で結ぶ,教授の励ましのお陰でこの処女論文が成ったのである. "

以上は先生の序文です. 先生の研究は頭初から分岐する Abel 体であったわけです. 30年前にはちょんまげを結っていた人間の中からこのような問題に取り組む者が現われたのですから Hilbertならずとも怪しまざるを得ないでしょう. この問題はその後長い間先生の頭の中に明滅していました. 第1次大戦の勃発は日本を文化的孤立に陥いれました. これがかえって先生を独自の思惟に追いやる結果となり, ここに生涯の偉業である類体論の完成を見ることになりました. Hilbert の類体は不分岐体でありましたが, 先生はイデアル類の概念を拡張することによりすべての Abel 体が類体であることに気付かれたのであります. こうして Abel 体はその全容を現わしました. この地点より眺めると虚数乗法を通じて登って来たけんそな道は指呼の問に見え, 2次虚数体に対する相対 Abel 体は H. Weber の τ函数の特殊値によって構成できることがわかりました 先生は常に数学, 否一般に, 学問は '帰納の一途を精進すべき'ことを強調されましたが先生の研究は正にその典型であります. ここにちょっとその後の日本における整数論の発展に触れましょう. Hilbert の課題は代数函数論の整数化にあったようですが, 代数幾何学の発達につれてこれを整数化する問題が起こって来ました. そして高い Geschlecht のモズル函数やその虚数乗法がふたたび問題となりました. こうして先生の残された虚数乗法の研究は若い世代へと承け継がれて行ったのです.

さて私が東大に入学したのは大正11年で, 先生が第2回の洋行から帰られた数年年齢でしたが, 先生の勤勉は驚くべきものがありました. 先生は11時半頃になると正門の方から大股で坂を下りいきなり教室にはいってこられます. 講義は30分間でしたがどの教授のよりも充実していました. 講義が終わると一路食堂へ.それもそのはずです. 先生は4時頃帰宅されるとまず寝られ10時に起きてそれから徹夜の勉強が始まります. 翌朝ふたたび寝られ11 時が打つと起き出されて急ぎ出校されるのでした この徹夜の勉強は第2次大戦まで続きました. お室ではよく部厚な紙挾みを繰っておられました. 論文を読まれると必要な部分を書き取ってこの紙挾みに差し込まれました. これも講義のとき手にされた小さな手帳も誰ものぞき見たものもないままに焼けてしまいました. 今東大に残っているのは僅かに1919年ごろの講義の原稿と虚数乗法のノートだけですが, ドイツ語でぎっしりと書き込まれております

先生は類体論の講義をされたことはありません, Helaclitus は言いました デルポイに神託所をもつ主なる神はあらわに語ることもかくすこともせず, ただしるしを見せると. どうやら日本の数学の神様にも通用しそうです. この神様はお酒が好物でまた神託所には紫煙が棚引いていました.

日本の数学にとって藤沢教授が生みの親なら先生は育ての親です. 先生の周囲には常に向学の若者が集まっていました. これらの人々はやがて日本文化の基石となられました 先生に接する人は先生の深い識見に感動すると同時にその偉大な人間性に打たれました. 日本の社会は明治以来西欧文化の大濤に浴して激動し続けまして, 黒雲は幾度か日本を覆いました. しかし先生は雪を戴く高嶺のごとく日本の空にぎぜん (魏然) とそびえておられました. 先生は藤沢教授のように社会活動はされなかった, せいぜい阪大の創設に関与された位のものでしょう. これは先生のご性格にもよりましょうが先生の強い学問への信念がそうさせたのだと思われます. だが先生は著書を通じて世の啓蒙にあたられました. 当時の日本の情勢から見て賢明な策であったようです.

第2次大戦の劫火は先生のお宅を焼き払い先生の書き物も蔵書も一切灰塵に帰しました. 先生の高弟方も大半なくなられた今日では先生を知るにはその著書による外はありません. 中でも近世数学史談は先生の内面を窺うのには最も都合のよい本でしょ う. とくに Gauss や Abel の部分は異彩を放っていますが, 先生はこれらの偉人を通じて自らを語っておられるように思われます. この本は19世紀前半をもって終わっておりますが,もし大戦が無かったら後編も世に出たことでしょう. おしいことです. 先生はまた第1次大戦後の数学の流れを暖かい目で見守られておられました.回顧と展望の終わりに '平和克復の後蓋を開けて見たとき, 日本の数学が花々しい寄与を提供するであろうことを予は切に希望するものである ' と述べられましたが, 小平邦彦君などの出現はどうやらこれに答えることができたようです.

戦中戦後の窮迫は高齢の身にどんなにこたえたことでしょう. 晩年足が不自由になられ外出されることもほとんどなく, また内助の功の高かった夫人にも先立たれ淋しい生活を送られておられました. 文化勲章もさることながら, 悪い時勢のため老齢の先生に平穏な生活をしていただけなかったことは返す返すも残念に思います.

いつも先生の机上にあった赤い表紙の Hilbertの Zahlbericht が今は主もなく東大数学教室に残っているのを見て私は涙なきを得ません.