日本数学会「数学通信」

第8巻巻頭言


8巻1号

巻 頭 言

 日本は間もなく人口減少期に入ります. 人口が大きく減少すれば,一人あたりの生産性や消費が多少増えても, 経済は全体として縮小します. また,我々はバブルの処理に失敗し, その過程で従来の日本的な方法が限界に来ていることが明らかになりました. このように,日本は変革期に直面しており, 多くの人が不満を感じる中で, 様々な習慣や価値観を改めることが求められています.

 大学などの教育機関も,日本経済の停滞と教えるべき若者の減少により, 様々な問題や課題が表面化してきました. 大学進学率は戦後ずっと上昇しており, 少子化にもかかわらず大学定員を増加させることができましたが, それも限度に近づいています. 大学は,一方では学生の学力を向上させる努力が求められており, 他方では教育・研究の効率性が求められています.

 このような厳しい社会環境の中で我々数学者が第一に行うべきことは, 数学がどのようなものであるかを世の中に分かりやすく説明し, 我々が当然得るべき研究環境を確保することです. 物理や天文などの基礎科学にも通じることですが, 数学の研究は個々の研究者の知的好奇心に基づき行われ, 結果として人間生活の向上のために役立ちます. 微分積分などの古典的な数学だけではなく, 最近の数学も人類の役に立っていることは, 数学の計算機科学への様々な応用や, 確率過程論が最近経済に使われていることなどからも明らかです.

 次に,数学者の多くは入学試験や数学の基礎教育に関係していますが, その部分の努力を世の中に説明する必要があります. 大学に入学して来る若者の学力が低下しつつありますが, これは我々数学者にとってチャンスでもあります. 学力低下の中で,大学卒業時の学力を保証するためには, 我々が行っている数学教育に求められるところが大きいと思いますし, 世の中の人にとって数学者の存在が一番分かりやすい部分でもあります.

 数学は実験を伴なわない純粋理論ですので, 他の理系の学問に比べ小さな大学に優秀な数学者がいる確率が高いと思います. ところがそのような大学では, 数学者が使える研究費が減っているように思えます. 数学の研究には実験器具は使いませんが, その代わり,数学者の間の情報の交換を通して研究テーマの選択が行われ, そのことが,結果として数学の研究成果が世の中の役に立つ原因となっています. このため,我々は伝統的に多くの予算を雑誌や書籍のために使ってきました. その他にも,研究者間の情報交換や共同研究のためには, 旅費や快適な通信環境も必要です. 我々は,他の分野の人にこのような事情を説明し, 良い研究をするための環境を確保する必要があります. 大きな大学が小さな大学をサポートするシステムも必要だと思います.

 前理事長の楠岡先生は,数学会固有の建物を持つという長年の懸案を果たしました. 私はそれを受けて, 数学会の将来の発展のための地歩固めに努めたいと思っています.

(理事長 森田 康夫)


8巻2号

巻 頭 言

―――「無用の用」と「不易流行」―――

 『老子』に「無用の用」という概念があります.一見役に立たないと思われるものが実は大きな 役割を果たしているという意味です.『荘子』にも同じ趣旨の話があり,次のような問答が載って います:恵子「あなたの話は役に立たない」荘子「無用ということを知って,はじめて有用について 語ることができる.大地は広大だが,人間が使っているのは足で踏んでいる部分だけである.だから といって,足が踏んでいる土地だけを残して周囲を黄泉まで掘り下げたとしたら,人はそれでも その土地を有用だと言うだろうか」恵子「それでは役に立たない」荘子「一見役に立たないように 見えるものが実は役に立っているということが,はっきりしたであろう」

 激動の時代を生きていく上で是非覚えておきたい言葉がもうひとつあります.「不易流行」: 松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念です.「不易を知らざれば基立ちがたく,流行を 知らざれば風新たならず」即ち「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず,変化を知らなければ新たな 進展がない」,しかも「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるというものです.「不易」 は変わらないこと,即ちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの,変えては いけないものということで,「不変の真理」を意味します.逆に,「流行」は変わるもの,社会や 状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの,あるいは変えていかなければならないもののことです. 「不易流行」は俳諧に対して説かれた概念ですが,学問や文化や人間形成にもそのまま当てはめることができます.

 人類は誕生以来「知」を獲得し続けてきました.「万物は流転する」(ヘラクレイトス),「諸行無常」 (仏教),「逝く者はかくの如きか,昼夜を舎かず」(論語),「ゆく川の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず」 (鴨長明)など先哲の名言が示すように,森羅万象は時々刻々変化即ち「流行」しますから「知」は絶えず更新されていきますが, 先人達はその中から「不易」即ち「不変の真理」を抽出してきました.その「不易」を基礎として,刻々と「流行」する 森羅万象を捉えることにより新たな「知」が獲得され,更にその中から「不易」が抽出されていきます.「不易」は 「流行」の中にあり「流行」が「不易」を生み出す,この「不易流行」システムによって学問や文化が発展してきました. 一人ひとりの人間も「不易」と「流行」の狭間で成長していきます.

 昨今は,「不易」より「流行」が重視される風潮が顕著です.社会,特に企業からは「即戦力になる人材」や 「直ぐに役に立つ知識」が期待されるようになりました.しかし,「即戦力になる人材」は往々にして基礎が しっかりしていないために寿命が短いことが多く,「直ぐに役に立つ知識」は今日,明日は役に立っても明後日には陳腐化します.

 激動する現代,目先の価値観にとらわれ,短絡的に実用的なものを求めがちですが,このような時期だからこそ 「無用の用」や「不易流行」の意味をじっくりと考えてみたいものです.

(東京都立大学前学長 荻上紘一)


8巻3号

巻 頭 言

 数年前から東大数理では,企業から客員の方を招いて講演やセミナーなどを行っている.このような客員講座には, 符号・暗号理論や数理ファイナンスに関するものが含まれているが,私自身が関わってきたのは,幾何学と コンピュータの境界領域に関する講座である.客員によるセミナーは,数学の大学院の卒業生が企業においてどのような研究に 携わりうるのかを知る貴重な機会であった.また,いわゆる離散幾何学に関する問題などが数学的にも興味深いものであることを 認識させてくれた.客員講座の一つのテーマとして,幾何学のさまざまな対象を3次元の模型として実際に製作するプロジェクトを行っている.

 歴史的には,多くの数学者が,代数幾何学や微分幾何学に現れる曲面の模型の製作に関わっていた時期がある. その顕著な例が19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツである.クライン,ブリルら当時一線で活躍した数学者が, 模型製作のプロジェクトを指揮した.模型の素材は主に石膏であるが,その他にも線織面を紐で表したものや多面体の 針金模型などさまざまな手法で製作された.製作の主な意図は教育的なものであったと思われるが,これらの模型は 他の分野から見た数学の姿を鮮明にするとともに,当時の前衛芸術運動にも影響を与えるなど,予期せぬ展開もあったようである.

 ドイツで製作された模型が約200点ほど,20世紀初めに東大理学部数学科に輸入され,現在数理科学研究科に所蔵されている. 3次曲面上の27本の直線や負の定曲率曲面など印象的なものが少なくない.最近,デジタルアーカイブの構築などで知られる 生産技術研究所の池内研究室によって模型のレンジセンサーによる測定が行われ,模型が厳密な数値計算に基づいて作られた 精密なものであることが判明した.また,数理科学研究科の客員講座の活動の一環として,樹脂を素材とする現代の技術による これらの模型の復刻を試みている.

 最新の技術を用いると,幾何学の対象をさまざまな方法で模型として実現することが可能である.一例を挙げると,クリスタル ガラスの中にレーザーでプロットしていくことにより,例えば離散群の3次元空間における極限集合のような対象を視覚的に 表現することができる.もちろん,模型として視覚化できるものは数学者が「見る」対象のほんの一部にすぎないであろう. しかし,このような試みが,数学をより魅力的に次世代に継承していくための一助となればと考えている.

(河野俊丈 東京大学大学院数理科学研究科,前数学編集長)


8巻4号

巻 頭 言

金 宗殖 教授を偲ぶ

日本と韓国の数学者の交流に多大な貢献をされた国立Seoul大学の金宗殖 (Jongsik KIM) 教授が54才で急逝されて10年経った.金教授を偲ぶ偏微分方程式論研究集会が命日の2003年12月22日にSeoul大学で 開催され,日本からは,東京大学の俣野博教授,大阪大学の鈴木貴教授と私 とが招待された.若い研究者が多く参加し活発な討論が交わされた会であった.

金教授は 1973年から,Seoul大学教授として,偏微分方程式の研究と後進の養成に邁進 され,亡くなられた当時はSeoul大学のGlobal Analysis Center所長で,大韓数学会の会長であった.

日本数学会と大韓数学会との間には1992年に結ばれた交換会員制度の協定があ る.それ以前は,有志の方たちによる熱心な交流があったが,日本の植民地支 配の影響で,両国の数学者の交流にはどこかぎこちない感じがあった.

幸にも,1980年代の後半にSeoul大学の金道漢 (Dohan KIM) 教授が,森本光生教授, 金子晃教授と知己となられたことが主な契機で新しい変化が生じた. 大韓数学会では,金宗殖会長の勇気ある決断により,日本数学会との公式交流を図ることが決まり,日本数学会でも,大韓数学会との公 式交流を図ることが森本光生教授と上野健爾教授とのリーダーシップのお陰で決まった.

1991年に札幌での数学会のおり,初めて金宗殖教授が率いる大韓数学会の代表団が来日され, 翌年,日本数学会も代表を韓国の数学会に送 り交換会員制度協定を定めた.両国数学会の 正式交流は金宗殖教授の英断によって可能になった,と言って過言ではないであろう.

10年経ってみると,分野によっては多くの交流があるが,数学全般では 10年前に期待したほどには交流が進んでいない, との感じを持つむきもあろうかとおもう. 幸い,多くの大学でCOEプログラムが動きはじめ,国際交流をさらに積極的に行う チャンスが来た.日本と韓国との間の数学者の交流もこの一環 としてこれ迄以上に盛んになり,交流の中から新しい数学研究の成果があがることを期 待したい.

(藤原大輔 学習院大学理学部)


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最終更新日: 29 Apr 2004